『山姥切国広展』は今や足利市のみならず、全国にファンを持つ注目の名刀の展示である。
今回は同展を訪れた二人の女性ファンという想定で、彼女たちの会話を
「minimu美術館リポート」としてお届けする。同展にこれから足を運ぶ方も、まだ予定がない方も彼女たちと一緒に、名匠・名刀の世界を覗いてみよう。
やってきました!足利市!!!美術館!!伯仲展!!!

2024年12月から抽選を行なっていた足利市立美術館で2〜3月に行われる足利市ゆかりの刀『山姥切国広』の特別展。
「今世紀最大のプロジェクトといっても過言ではない展覧会!!を勝ち取れたのは、2025年の運を使い果たしたといってもいいくらい…!」
そう、実は今回の展覧会のチケットの競争率は、インターネットによる事前観覧申し込みに定員の2倍となる約9万人分の申し込みがあり、抽選で約2万8千人の入館が決まったと発表があったのだった。
どちらも重要文化財である、『本作長義』と『山姥切国広』が足利の地に揃うのは435年ぶり。山姥切国広は、本作長義の写しとされ、切っても切れない縁なのだ。

「ゲームでもどっちも推しだから、本物が見れるの、すごく楽しみ!!!」
山姥切国広縷縷プロジェクトが2023年9月より発足し、クラウドファンディングやふるさと納税で支援者を募り、公益財団法人足利市文化財団が未来永劫守りつないでいかれる事になったのだ。



「2振りが揃って見れるなんて、ワクワクしちゃう!名古屋でもやるんだよね」
「足利での展示は『国広、本作長義と出逢う。』ってキャッチコピーだけど、本題は『山姥切国広展―名匠の軌跡、名刀の誕生―』だからね!長義の展示が話題になっているけど、見どころはたくさんあるよ!山姥切を生み出した国広周辺も学んでいこう!」
「本作長義」と「山姥切国広」は、その姿が非常に近しいことから、本歌(本作長義)と写し(山姥切国広)であると伝わり、双方が今日まで現存しつつ、ともに重要文化財に指定されている唯一の存在。
「本作長義」を主君より拝領した足利長尾家6代当主・長尾顕長がそれを名誉とし、刀工・国広にその旨の銘文を刻ませ、また「本作長義」の写しとして作らせたのが「山姥切国広」だと考えられている。顕長の所持からおよそ100年後、「本作長義」は尾張徳川家の所蔵となり今日まで名古屋に、「山姥切国広」は2024年に作刀の地とされる足利市で継承されることとなった。
この2振りがそれぞれのゆかりの地である、名古屋市と足利市で同時展示される今回の企画は、刀剣の歴史と文化を幅広い層に向けて発信する絶好の機会なのだ。
美術館の入り口をくぐると、まず目に入ってくるのは、山姥切国広と本作長義のタペストリーだ。リーフレットにも載っているものである。







「こうしてみると、ぜんぜん違う刀、って感じに見えるよね…」



「確かに、刀匠さんの展示会で写しを見せてもらったことがあるけど、全部忠実に本物を再現されてた気がする…!」
写しとは本来、名刀を模して作られたもので、腕を磨くために作られたもので、茎に〇〇写しと銘をきるもの。大体の写しの作品は、本物を忠実に再現されたものが多く、現在でも作刀されている。贋作と間違われがちだが、贋作は銘まで真似をする偽物とされているため、別物となる。銘まで真似したのか、銘は〇〇を写しましたよと切るのかが違いとなっている。







「もしかしたら、国広の意図があったのかもしれないね」
第一展示室に入ると目に飛び込んでくるのは、立派な甲冑。足利長尾氏の展示である。



「最初は長尾氏の展示なんだね」



「国広に山姥切国広を作らせた張本人だからね。人物像を知らないと!」
足利長尾氏は約120年もの間6代にわたり足利の地を治めた。歴代当主は武士でありながら芸術文化の素養を備えた人物で、狩野派2代目の狩野元信に絵の手解きをしたのは3代景長とされているほど、
芸術に造詣の深い家系でもあったようである。



芸術に造詣の深い家系だったからこそ、顕長は写しを作らせたのかな?



うーん…そうかもしれないね??
たくさん刀が展示されている!


第二展示室は、国広の父や国広が打った刀が展示されている。国広は日向国(今の宮崎県あたり)に生まれる伊藤氏の家臣だった。現存する最も古い国広刀は46才(天正4年・1576)の時の作。しかし、その翌年、伊藤氏は島津の勢力に押され日向国を敗走。国広は山伏に身をやつし、各地を転々としながら作刀を続けていたと考えられている。
天正18年(1590)ごろ、還暦を迎えた国広は突然足利の地のに姿を現したと言われている。この地で、山姥切国広と布袋国広を作刀するが、長尾顕長と小田原の合戦で敗れて間も無く足利の地を去ることとなる。天正19年ごろ、国広は京へ上がり、一条堀川に居を据え、本格的に作刀を開始。弟子を育てて、一門を形成し、「堀川物」と呼ばれるようになった。こうして、国広は波乱の人生を歩みながらも、一条堀川の地で晩年円熟の時を迎え、慶長19年(1614)刀工としての生涯を全うし、84歳で生涯を閉じた。



国広はいろんな地で作刀をしたんだね…! しかも、84歳まで!



刀工として、各地を転々としながらも、それだけいい作品を残していったんだね
彫刻がされている刀もたくさんあるね!


国広は新刀の祖とも言われており、刀身彫刻も魅力のひとつである。刀身彫刻に関しては、刀工自ら彫るパターンと、後彫りと呼ばれ後世の持ち主が彫らせる場合がある。国広は前者であり、多くの刀彫刻を残している。



これは、布袋…?眠っているのかな?
有名なのは、眠り布袋の彫刻だろう。山伏として点々としている中で、長尾氏と出会い、足利の地で作刀するようになって作られたもののようである。眠り布袋の刀身彫刻の施された刀は、小田原の合戦で負けた後にできたものとされている。敗戦後、力を蓄える意味で打ったのかもしれないが、真相は定かではない。



刀身彫刻って、かっこいいものが多いと思ってたけど、可愛いものも多いんだね



熱田神宮所蔵の刀は松竹梅が彫られていたり、和歌が彫られていたりするものもあるよ



意匠はさまざまなんだね



そこも魅力のひとつだよね
いよいよ、本日の目玉でございます!





本作長義と山姥切国広に出会えるね!
第三展示室は、2振りのために用意されていると言っても過言ではない空間である。本作長義と山姥切国広の押し型を比較して、違いを学び、実際に刀を見ているという流れだ。



押し型を比較すると色々違ってるね



写しって言われてるけど、ぜんぜん違う刀みたい!



しかも、顕長さんが本作長義を持っているのに写しを作らせたんだよね?



誰かが持っているから、名刀欲しい!!!で作らせることが一般的だけど、なぜ本作長義を持っているにも関わらず、写しの山姥切国広を作らせたのかはまだ分かってないんだって!



これから解明されるのかな…??ロマンがあるね!



ロマンといえば、そっくりに作られていない点も、謎じゃない?似てるといえば似ているけど、そっくりじゃない。もしかしたら、国広さんは本作を超えたい!!!という思いがあったのかもよ!



そう言われると、違いもうなずけるかも…!




展示は、女性が見やすいような高さとライティングで統一されていて、2人は地金から波紋、銘までじっくりと観察し堪能しました。



これからは、私たちが繋いでいくんだね



そうだね。できることは少ないかもだけど、こうして刀を見に行くだでも少しでも力になれたらいいね!



よーし!刀も堪能できたし、国広がいた足利を探訪しますか!




文/小林明日香 写真/浦島大介
協力/足利市立美術館