2024年11月29日、桐生市でタクシー不足を解消するために「日本版ライドシェア」のサービスがスタートした。その運行管理はMITTと呼ばれるアプリが担っている。このシステムを手がけたのが市内のIT企業・CICAC(シカク)だ。創業者の今氏一路は都内の大手IT企業を経て、2017年に渋谷で同社を起業、2年前に桐生に移住した異色の経歴の持ち主だ。人口減少が進むこの町で今氏は何を見つめているのだろうか。
地方の課題解決をしたい
桐生市の中心部にCICACのオフィスはある。〝ニノサ〟と書かれた電飾看板と熱帯植物が飾られている入り口はまるでカフェかショットバーのような構えだ。扉を開けると薄暗い倉庫然とした仕事場に今氏一路は現れた。「ITでなんかチャラチャラしたいだけだろみたいな雰囲気あるかもしれないですけど、周りが思っている以上に地方の課題解決をやりたいと思ってるんです」と真顔で話す。
日本版ライドシェアは大都市圏や観光地で盛り上がりを見せているが、本当に必要なのはむしろ地方だと今氏は力説する。「少子高齢化が進む中で、山間部などの公共交通が維持できていないところも出始めています。さらに今後人口減少が加速すれば、一般人が一般人を輸送できるっていうのは重要な役割を担っていくと思います。消防団じゃないですけど、地元の交通は地元の人が守る。それを実現するためのシステムを作りたいですね」
コピペの風景に感じる嫌悪感
都会育ちで、これほどまで地方復興の思いを語る日本人は珍しい。都会的な雰囲気をまといながら、どこかそういったものへの嫌悪感を忍ばせているようなアンバランスさを持っている。その嫌悪感のルーツは「生まれ育った原風景が深く関わっている」と今氏は言う。
1983年、神奈川県相模原市の生まれ。父親の仕事の関係で小・中・高時代は埼玉県浦和市で過ごしたが、青春時代を過ごした埼玉の風景にずっと苦手意識を持っていたという。国道沿いに同じようなチェーン店が並ぶというベッドタウンの、あの光景だ。「家と言うより箱で、納税するために生きるみたいな感覚が嫌で。ボクはコピペって呼んでいるんですけど、日本全体が『埼玉化』しているっていうか。日本が進んでいくのはこっちなのかっていう気持ち悪さを感じています」

今氏に根ざした逆張りの性格 大学は海外に
彼の人生を紐解くと、世の中の大きな流れに乗らないで、あえて別方向へ進もうとする力学が働いている。みんなが国内の大学に進学する中、あえて海外を選択したり、東京一極集中の風潮の中で地方に移住し、生活を謳歌していたり…。この今氏「らしさ」は幼い頃にはすでに芽吹きはじめていた。「天の邪鬼というか、ゲームとか漫画とか、みんながやってることは基本的にやらないっていうタイプでした。みんなと一緒に何かをできない性格で、落ち着きのない子でした。だから、人づきあいも〝狭く浅く〟って感じ。学校ではずっと寝てましたね」
国際文化系統が学べる地元の公立高校に進学し、部活動はサッカーに明け暮れた。進学を目前に控え、学力的には難関大を狙うのが厳しいのが見えていた。かといって、中途半端なレベルの大学にも興味が持てなかったし、まして就職の意思もなかった。ただ、漠然と何かを成し遂げたい思いを胸の内に抱えながら、モヤモヤする日々を送っていた。そんなとき、父親から海外の大学進学を勧められた。「親元から離れて海外というのが、ビビって来たんです。他の子とは違う道を行くことにワクワク感を感じました」
かねてから日本社会の同調圧力に違和感を覚えていた。周りにあわせなければいけない雰囲気の中で、打ち解けきれない人間関係に窮屈さを感じていた。「日本という環境からいったんちょっと離れたいって気持ちが正直ありましたね」
高校卒業後、半年ほどの留学準備期間を経て、ニューヨーク州立モホークバレーコミュニティカレッジ(公立2年制)に入学した。専攻はデザインだった。日本の学校では授業中寝て過ごすことが多かった今氏が、寝る間も惜しんで勉強にのめり込んだ。個人主義のアメリカ社会も居心地が良い環境だった。
キャリアを変えたフラッシュとの出会い
帰国後、神楽坂にあるデザイン会社に就職した。だが、デザイナーという比較的自由度の高い職業であっても、今氏が感じていた日本社会の「違和感」は根づいていた。アメリカ帰りの彼にはその「違和感」がくっきりと映った。クライアントから渡されたイメージを忠実にこなすのが役割で、デザイナー側からの提案は受け付けてもらえない仕事のやり方が馴染めなかった。「もちろん今なら理解できるんです。クライアントがお金出しているわけだから。でも当時は若かったというのもあるし、アメリカではクリエーターがクライアントと対等な立場で『こうすればもっと良くなる』と提案して作っていくのが当たり前だったので、よりその違いを鮮明に感じたんでしょうね。仕事って、こんなにも面白くないんだって挫折感を味わったというか…」
そんな折、Adobe社の開発したフラッシュプレーヤーと出会った。勤めていた会社の案件でフラッシュプレーヤーを使った仕事が増えてきていた時期に、フラッシュ制作を担当する部署に異動になった。「デザインしたものがプログラムによって動いたりするのが面白くて、没頭しましたね」
プログラミングは専門ではなかったが、仕事をこなしながらスキルを磨いた。勤めていた会社は出版社系のプロダクションだったので、さらにその技術を磨くため、IT系の企業に転職。その後、テレビ朝日のウェブ部門でフラッシャーとして採用された。
テレ朝時代にバディを組んでいた上司がサイバーエージェントに転職することになった。2009年当時のサイバーといえば、Ameba事業を立ち上げ「アメーバピグ」が流行していた時期にあたる。その上司から「お前も来てほしい」と口説かれた。悩んだ末、サイバーへの転職を決意、ITエンジニアとして働くことになった。26歳のことだった。
自らの人間関係を「狭く浅く」と称したが、照れ隠しが多分に含まれているように思う。意外と「広く深い」。表面はドライな印象だが、内面は案外ウェットな部分も持ち合わせている。
こんなエピソードがある。当時、彼はプライベートでバンドを組んでいた。そのバンドでギターをしていた仲間の薗田佳介は本職がレコーディングエンジニアだった。個人でレコーディングができる時代になり、「仕事が減って困っている」という話を聞き薗田にプログラミングを教え始める。「自分より2つ上なんですけど、すごくセンスが良くて。自分はサイバーで働いていたんですけど、テレ朝を紹介したんです。そしたら、そこで頭角を現してきて。この彼とはいずれ一緒に仕事ができたらいいなと思っていました」

首をもたげた起業への思い
サイバーエージェントは大企業だったが、自由度も高く寛大な環境だった。待遇も良く、仕事に対してさしたる不満はなかった。一方で、このまま安定した環境に身を置いて良いのかという気持ちもくすぶり始める。「恥ずかしいんですけど、自分は他人とは違って何かもっと特別なことが出来るんじゃないかっていう全能感を30になっても持ち続けていたんですよ」
32歳の時、ずっとくすぶっていた「何かやりたい」という思いが決壊した。離婚というのもきっかけになった。大好きな街・渋谷にCICACを立ち上げる。業界で出会ってきた仲間やクライアントに手伝ってもらったり、仕事をもらったりする形でスタート。そして、この独立・起業のタイミングで薗田のことが頭をよぎった。すぐに一緒にやらないかと声をかけた。
大好きなシブヤを飛び出て移住を決意
当時、テレ朝で働いていた薗田は家族ごと生まれ故郷である桐生に戻りたがっていた。今氏の中では彼とやりたいという思いがあり、「じゃあ、俺が東京でやるから、桐生で働いていいよという話になり、2拠点になったんです」 今、薗田はCICACの取締役副社長として今氏を支えている。コロナ禍になり、「地方が面白いんじゃないか」という気持ちもあり、今氏自身も移住を考え始めていた。「本当はいくつか回ってから決めるつもりだったんですけど、薗田が桐生にいるから手始めにこの町を訪れたんです。で、1発目で決めちゃいました」と笑う。コピペにしか見えない都市部の街の風景とは違う風景が桐生にはあった。「良い具合に古いものも残されていて、人と人の距離感も程良かった。そういうところが気に入りました」大きな流れに乗らないで別方向へ行こうとする力学が桐生へと導いたのかもしれない。

地方には東京に負けない刺激がある
CICACは地方では異質なIT企業だ。同社クラスの地方のIT企業はプロダクトに既存のシステムを活用するケースが多いが、同社ではゼロからシステムを組み上げるスタイルを目指している。「大きい企業さんと協力し合いながら、桐生にIPO(新規公開株式)を目指せるような会社ができればいいかなと思いますね。人口減少を悲観するのではなく桐生市が〝濃い7万人のまち〟になればおもしろいと思います」と未来を描く。銭湯再生やMITTを活用したライドシェア。桐生で手がけた仕事に共通するのは地方の社会課題の解決だ。「渋谷は刺激的な街ではあったんですけど、桐生の方がやりたいこと、やれてるんですよ。ここに来なければ、銭湯復活させたり、サウナ経営することもなかっただろうし、山でチェーンソーを振り回すこともなかったと思うんだよね」と笑う。
そんな今氏には地方にいる若い子たちに常々伝えたい思っていることがある。「地方出身の若い子って都会に刺激を求めて行きたがるじゃないですか。でも、刺激って多分与えられるものじゃなくて、自分で探しにいくものだって思うんですよ。東京で刺激を与えられることになれ過ぎちゃうと、探せない子になっちゃうと思うんです。いったん外に出るのは悪いことじゃないけれど、地元にも面白いことがころがっていることを知っておいてほしいですね」
取材・文・写真/峯岸武司