ヒーローはいつも熱狂と喧噪の中にいる。12月11日、オープンハウスアリーナ太田では午後7時5分にティップオフになるレバンガ北海道戦に向けてスタッフが会場準備にせわしく動き回っていた。音楽がけたたましくアリーナ中に響き渡り、試合開始前の裏方の熱気に包まれる中、群馬プロバスケットボールコミッション(群馬クレインサンダーズ)社長・阿久澤毅(64)は姿を現した。 球団社長就任から5年が経過した。現在は球団の運営を支援してもらうため、自治体や企業など回り、講演やスポンサー集めなど精力的な日々を送っている。
阿久澤毅。その名前を聞けば70年代に群馬で青春時代を送った人たちには知らない人はいないだろう。いわゆる「レジェンド」だ。
エースピッチャーとして大胡中(前橋市)を県大会優勝に導いた実績を引っ提げて、桐生高校に進学。当時、キリタカと言えば、春11回、夏13回の甲子園出場歴を持つ野球の名門校だった。同学年には、阿久澤とともに甲子園を沸かせたサウスポーの木暮洋がいた。
78年、阿久澤が高校3年の春、桐高は第50回選抜高校野球大会に出場。初戦は後にプロで活躍する石嶺和彦を擁する強豪校・豊見城高校(沖縄)だった。当時、豊見城はPL学園などとともに優勝候補の一角に名を連ねていた。桐高ナインはその豊見城を3-1で下し、躍進を続けた。
「選抜の最初の試合が豊見城高校だったのね。こんなに強いのって思いましたね。いきなり先制点を奪われたんですよ。でも、やられたなと思った矢先の1回裏、先頭打者の清水(貴彦)がライト前に打ったんですよ。それがなかったら、勝利はなかったね。励まされました。やれるじゃんって。いけるって思い直せた瞬間だね」
この選抜大会で阿久澤は王貞治以来となる2試合連続ホームランを放つなどの活躍を見せ、ベスト4進出の立役者の一人となった。当時、大学野球やプロ入りを期待された有望選手だった。もちろん、あちこちから声がかかった。でも、「伝説の男」は大学野球部やプロ野球からの誘いを断り、硬式野球部のない地元・群馬大学教育学部(当時)に一般入試で進学。大学卒業後は、小学校教諭などを経て、公立高校の体育科の教員として教鞭をとりながら、野球部の監督として指導にあたった。太田高校を皮切りに、桐生高校、渋川高校と男子校を渡り歩いた。
なぜプロや大学野球の道を選ばなかったのか。スポーツライターの二宮清純は94年2月号の「Number」(文藝春秋)に「当の阿久澤は微塵もプロ入りに興味を示さなかった。母子家庭という事情もあり、親元を離れる気持ちにどうしてもなれなかった」と記している。
幾度となく投げかけられたであろうこの質問をあえてぶつけると、一瞬、阿久澤は困惑の表情を浮かべた。
「面倒くさかったのかな。群大は近いし、お金がかからなかったし。田舎だったから東京に華やかな世界があることを知らなすぎたのかもな」。さらりとかわされた。
人生の選択において、その決断に至る心の揺らぎはミルフィーユのように複合的で階層的なものだ。これが理由だと単純に説明できるものではない。阿久澤が浮かべた困惑はその問いに答えることの難しさを物語っているようだった。
勢多農林高校の教員として定年を控えた59歳の12月、阿久澤に再び人生の大きな選択を迫る出来事が起こった。それは、一本のLINEがもたらした。送り主は高校時代、野球で同じ釜の飯を食べてきた木暮洋からだった。LINEに記された《プロバスケット球団の社長にならないか》という内容にはじめは度肝を抜かれた。「何言ってんの? と思いましたね」。だが、ちょうど手塩にかけてきた生徒の進路も決まり、「じゃあ、来年どうしよう」と思っていたタイミングでもあった。悩みはしたが、決めるまでに時間はかからなかった。ちょうど新型コロナウィルスが中国の武漢で発生し、世界中を巻き込んだコロナ禍の入り口だった。