役目を終え使われなくなった場所・建造物が現代に蘇る
街中の少し寂れた路地裏や、田舎道を散歩するのが好きで。
この時期になると、澄んだ空気に混じる冬の匂いが年の瀬を感じさせます。
普段、車で通り過ぎて行く場所をあらためて歩いてみると、空き家や空き地、使われなくなった田畑や溜め池などが目に留まります。
釣りとは関係無い話ですが、先日足利市内で開催されておりました『第3回 路地まちアートランブル』に足を運んでまいりました。
市内に点在する古民家や空き店舗などに美術作品を展示し、市内に点在する作品展示会場を歩いて回るイベント。
開催前から楽しみで、当日も開催時間めいいっぱい展示作品を鑑賞してきました。

こういった形式の現代アート展は各地で開催されており、
群馬県の中之条町で2年に一度開催される『中之条ビエンナーレ』にも今年は足を運び、多くのアート作品に触れて刺激を受けてきました。

僕自身、特別に現代アートの知識があるわけではなく、もともとは興味すら無かったのですが。
厳かな美術館などではなく、普段歩きなれた街中で鑑賞できる敷居の低さが、すんなり入り込めた理由のひとつでもあります。
今までアートとは無縁だった僕が興味を持ち、自由に楽しめることを知り、また新しい世界が広がったのはとても大きな収穫でした。
そしてこういった現代アート展で、作品ひとつひとつに触れる魅力と同じくらい毎回余韻として残るもの。
それは、役目を終え廃墟のようになっていた建造物が、アート作品と合わさり新しい価値が生まれること。
大きな美術館や新築の建物を作らなくても、古いものを活用し再び新しいものとして蘇らせることは、とても現代的だと思います。
更に僕のようなそれまで対象とならなかった層が、そのジャンルに興味を持って足を運び、対価としてお金を落としていけば地域活性化にも繋がることです。
釣り好きとそうじゃない人。現在の釣りを取り巻く環境について考えてみる
釣りの話に戻りますが、普段仕事で「これから釣りを始めてみたい」といった方とお話させていただいた時に、日々感じることがあります。
それは初心者でも気軽に釣りを楽しめる「身近な釣り場」が昔と比べてだいぶ減ってしまったこと。
僕が釣りを始めた幼少の頃は、まだ近所の川や溜め池でも釣りができたり、湖や海などの漁港や防波堤でもいたるところで釣りができました。
そして子供ながらに比較的簡単に魚が釣れたのを覚えています。
それが次第にゴミや駐車場問題、水難事故、自然災害による河川工事など、気づけば「釣り禁止」どころか「立入禁止」の水辺が多くなりました。
現在も釣りが可能な場所でも、人的要因だけでなく気候変動など、様々な理由で昔より魚自体が減りとても危機感を感じます。

水辺は釣りをするためだけの場所ではないのは当然のことで。
山沿いの溜め池は農業用水の為の役割があり、漁港は漁師さんが仕事で使う場所でもあります。
身近な川も釣りをするために流れている訳ではなくて。
仮にどれだけ魚が釣れる水辺でも、危険な場所に立ち入らないのは仕方がないこと。
そうなると今後釣り専用の「釣堀」や「管理釣場」で釣りをするか、船に乗って沖で釣りをするかの選択になってきます。
しかしニジマスの管理釣場などは毎週養殖魚を放流するため、大人料金で一日5,000円前後が現在の相場。
更に海で船釣りとなると、一人10,000円以上と一気に敷居が高くなります。
本来釣りは、昔からその地域のいたるところで子供でも手軽に遊べて、良い年した大人まで夢中になれる大衆向けの遊びです。
昔と今は違うからという理由で、そういった「身近な釣り場」は果たしてもう昔話になってしまうのか?

もう一度敷居を下げ、これからも釣りが身近な遊びであるために
仮に僕自身が具体的に考える理想の「身近な釣り場」とは。
- 釣り専用のスペースが確保されている
- 足場も良く子供でも安全に釣りができる
- 釣り堀ほどではなくても初心者でも適度に魚が釣れる
- 入漁料は一日500円~1,000円程度で釣りができる(親子で2,000円程度)
- 駐車スペースやトイレも確保されている
- できれば「自然の中で釣りをしている」というロケーションも大事
上記の条件を満たした自然の釣り場が現在の環境で難しいのであれば、それを人工的に作り、維持していくことはできないのか?
冒頭で述べた『路地まちアートランブル』や『中之条ビエンナーレ』のような「アートと場所の融合」。
地域にある使われなくなった場所、古いものを活用し新しい価値を生み出すこと。
しいては地域活性化に繋がることを釣りに落とし込んでできないか?
次回後編では、僕の思い描くその具体的な「身近な釣り場の復活と地域活性化」について書かせて頂きたいと思います。


