蓮岱館
「足利の百年全部見てきた」

今から113年前、足利百年カルタの範囲よりもっと昔の明治44年。足利の町に、和食と宿の「蓮岱館」が誕生した。
現在の3代目館主・深澤幸弘さん(69)の祖父母が、電話交換業務用だった建物を引き取って創業。戦時中は、近くの軍用飛行場を爆撃する敵機が店の上を何機も通過する中でも、休まず営業したという。終戦後も食糧調達は大変で、東京まで出向いたこともあった。
幸弘さんの両親の代からは、洋食にも挑戦。「レストランなんか絶対経営が成り立たない」と周囲には言われたが、新しい物好きの足利の人達には流行った。これからは西洋文化のテーブルマナーが大切!と、足利大学の前身である女子高で教えたりもした。「プロ野球・(現)ヤクルトスワローズが足利でオープン戦をする際の定宿にも使われ、相手チームの王貞治さんや長嶋茂雄さんも食事に来てくれた」と幸弘さんは胸を張る。
時代の要請に合わせ、これからも

お客の7割が繊維業者だった頃は、多くの商談用に和の個室も重宝された。幸弘さんの幼時、足利には正規の芸者「第一見番」が約3百人、芸をせずお酌だけする「第二見番」が約2百人もおり、蓮岱館に住み込みの人もいた。幸弘さんが学校から帰ると、三味線や太鼓などの準備をする芸者たちで長い廊下の両側が埋まっていて、「お帰りなさい、と挨拶されるのが恥ずかしかった」と振り返る。寝る時は、足利音頭などの三味線の音が子守唄代わりの日常だった。
時は流れ旅館を畳んだ今も、料理屋としてのこだわりは強い。ブランド野菜の「あしかが美人」、全国で金賞も獲った「足利マール牛」など、極力足利の食材を使う。蓮岱館の味を守るため「流れ者の板前は使わない」方針で、2人の料理人の勤続年数は、合わせてもう百年になる。
原点である個人客から、繊維の商談、大企業接待、結婚披露宴、そして今再び、味を求める個人客――「時代の要請に合わせて店を変化させ、幅広い顧客層をつかんできた」と語る幸弘さん。明治から令和の長きに渡り「足利の百年を全部見てきた」蓮岱館は、過去を伝え、今をつかみ、未来へ続く。

取材=竹居あいみ・小高明日奏・君島太一・森愛果
[白鴎大学 地域メディア実践ゼミ]