2月の思い出

 2月になると、特別に思い出す何人かの人がいる。

 身近なところでは、この仕事場の大家だった山浦啓榮さん(2003年2月8日没)。この方のご厚意で、足利市駅から徒歩10秒というとてつもない好立地に編集室を構えていられるのだ。

 以前にもこの欄で書いた気がするが、山浦さんは余所者の小生に、実にさまざまな足利のことをおしえてくれた。20代前半で足利のロータリークラブに入会し、ときの錚々たるメンバーに鍛えられた見識は、実に重みのあることばかりで、それ故、氏の人生の後半ではその言動が誤解をもって見られたこともあったような気がする。

 しかし小生は、戦前戦後の足利を代表するような何人かの人たちのことに、よく興味をもって聞き入ったものだ。

 20数年前、山浦氏は私財を投げ打って「アンタレス山浦国際交流基金」(現アンタレス山浦財団)を設立した。将来の日本を背負って立つ人材の養成をしなければ、そのために若者の国際交流の助成・支援をしていこうというものだった。同時に、中国の石刻拓本の蒐集にも力を入れ、専門家が「世界一」と認めるほどの収蔵量を誇る「華雨蔵珍之館」まで造ってしまった。

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 立松和平さん(20102月8日没)とは直接のつながりはないのだが、小生の弟を通して何回かご一緒させていただいたりインタビューをさせていただいたりした。そしてあるとき、小さなパーティーで立松さんと隣同士になり、しばらく話を楽しむことがあった。その機会に、あるお願いを立松さんにしたのだ。それは、あの司馬遼太郎さんの『街道を行く』シリーズの完結編を書いてほしい、ということだった。

 司馬さんは「最後に行きたいところは栃木県の佐野市」と生前語っていたそうで、そのことをある雑誌の記事で読んでいた小生は、司馬さん亡きあと、未完の『街道を行く』を完結できるのは立松さんしかいないと思っていたのだ。

 突然の依頼に立松さんは、「うーん、○年先まで予定がいっぱいなんですよ」といいながらも興味深そうに、小生が持っていった「『街道を行く』の最終回は、佐野、足利周辺(関八州)で」という古い週刊誌の記事のコピーを「これ、もらってもいい?」と言いながら、ジャケットの内ポケットにしまっていた。

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 見田盛夫(菅原哲)さん(2010年2月3日没)も忘れられない。日本のフランス料理店のガイドブックで、『日本版ミシュラン』といわれた『グルマン』を1984年から90年代後半まで毎年出し続けた。

 「(日本の)フランス料理の発展に半生を捧げた方。フランス料理の料理人や関係者なら、必ずどこかで影響を受けたはず」と見田さんのことを紹介しているグルメライターもいる。弊誌には2002年の10月号から2007年の10月号まで、「美食紀行」の連載を快く引き受けてくださり、東京の「北島亭」や「ひらまつ」をはじめ、全国のおいしいものの紹介をしていただいた。

 小生の結婚式を含め、足利にも数回足を運んでいただいたり、日光へご案内したり。また、「美食紀行」で紹介した有名店に招待していただいたことも忘れない。

 東京で開かれた見田さんのお別れ会の司会は、たしかアナウンサーの山本文雄さん(故人)だったと思う。「今日は全国のフレンチのシェフが集まっているかも」とアナウンスしていた。

 一昨年に弊誌が企画した「足利風土祭」の3回目(2回目からは足利商工会議所が事務局)が2月3日から始まる。今さらなのだが、見田さんが元気なうちにスタートさせたかった、と考えるこのごろである。