生きるものの歌
この夏、永六輔、大橋巨泉が相次いで逝ってしまった。昨年、二人より先に逝った野坂昭如に続いて。40年以上も前から、小生の年代の連中の一時代前を走っていた「あこがれのおじさん」たちだった。そんな人たちが、あっという間におじいさんになり、気が付いたら闘病者になり、そして消えて行った。
他人事ではない。我が身でさえ、すっかり「年寄り」だ。尊敬する足利の詩人(故人)の作品に、鏡に映った自分の顔を見て「他人が写っている」と、その変貌を嘆くような詩があったが、この薄くなってきた前髪の白さ加減、しわくちゃの顔にシミ、どこに焦点を合わせているのか分からないような目玉、だれがどう見たって堂々の「年寄り」だ。
1974年、前述の永、野坂に小沢昭一を加えて、「中年御三家」を名のり、コンサートを開催した。会場はなんと「武道館」である。ビートルズ以来の盛況と話題になったが、それも当然である。お世辞にも上手とはいえない3人のライブに、1万人以上の若者(主に団塊世代だったかな?)が殺到したのだ。
歌を歌うより作るほうが合っていそうな3人、特に永に関していえば、誰もそのことに異論はないと思う。「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」などなど、書き出したらキリがない。そんな永が作った歌の中で小生の最も印象に残っている歌が「生きるものの歌」である。初めて聞いたのは前述「中年御三家」のコンサートと同じ年。小生が足利で企画した「高石ともやとザ・ナターシャー・セブン」のコンサートの際にゲストで出演した諸口あきらが歌ったものだった。
あなたがこの世に生まれ
あなたがこの世を去る
私がこの世に生まれ
私がこの世を去る
その時愛はあるか
その時夢はあるか
そこに幸せな別れがあるだろうか
あるだろうか
これが1番の歌詞だが、2番との間奏に台詞が入っていて、諸口は、ここの台詞を諸口流に替えていた。『(子どもたちに)これからお前たちにどのような風が吹こうとも、この手を広げて守ってやる。だから安心して眠りなさい。いつか、子どものころに聞いたふるさとの昔話を聴かせてやろう。そして人が生きていくっていう歌も聴かせてやろう』というような内容だった。
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何年かして小生の親友が結婚した。お祝いにこの曲をプレゼントした。「ザ・ナターシャー・セブン」の坂庭省吾(花嫁の作曲者)と城田じゅんじに特別にカラオケを作ってもらい、間奏の台詞は小生が作り替え、歌った。『次はお二人が、あなたがたの子どもにこの歌を歌ってあげてください。幸せの絶頂の二人にも、いつか必ず別れる時がくる。その時お互いに、この人と一緒になって良かったといえるような家庭を…』というような内容にした。
それから10数年後の朝、彼が危篤という知らせが飛び込んできた。あわてて病院に駆けつけると、ほとんど意識がなかった。傍らで奥様が「結婚式の時に歌ってくれたあの歌を、もう一度聴きたいっていっているんです」と…。「レコード屋さんで○○さんがレコーディングしたものを買ってきたんですけど、それは違うというんですよ」とも。確かに○○は歌がうますぎるのだ。諸口にしても、小生などなおさらだが、決してうまい歌ではない、が、なぜか引き付けたようだ。
自宅に帰るやいなや、10数年前のテープを探したが見つかるはずがなかった。やっと諸口のレコードがあることを思い出しこれをテープに取り、翌日病院へ。
静かな病室に、彼の家族も集まり、目を瞑ったままの耳元にテープレコーダーを近づけた。やがて間奏の台詞が終わるころ、彼の瞼から涙があふれてきた。するとずーっと握っていた手をわずかだが握り返してくれた気がした。その瞬間、悔しいけれど「良かった」と思った。
そして数日後、42歳の親友の訃報が届いた。
あれから、もう25年。間もなく彼の命日だ。
(敬称略)